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『現代文標準問題精講』~国語を学ぶとはコミュニケーションと思考を深めること

カテゴリ: 書籍など 作成日:2016年12月02日(金)

 

以前、就職活動中の学生さんにエントリーシートの書き方を助言したことがあります。その際に、表現や論理が、社会人、いや、大学生のレベルに達していないな…と感じるエントリーシートに出会いました。アドバイスをする際にエントリーシートそのものに手を入れることは基本的にしないのですが(そうすると、学生さんが自分で考えて思考や言葉を自らのものとする機会が失われてしまいます)、その時ばかりは指導のやり方を思いつかず、例文として書き方を添削してしまいました。

 

その時強く感じたのは、表現や論理が社会人として最低限のレベルに達しているかは、「国語力」の問題だということです。そしてふと、確かにそれは国語力だが、国語力というのはどうやって教えられるもだろうか…と疑問に思いました。その時、たまたま目に入ったのが、母校の先生が書いたこちらの本です。

 

神田邦彦著『現代文標準問題精講』旺文社 2015年

 

この本をパラパラと読んでみて(すみません、ガッツリと問題を解いてはいません)衝撃を受けたのは、「そうか、国語とはコミュニケーションを学ぶということだったのか!!!」ということです。例えば、わかりやすく文学の問題文をひとつ抜粋してみると、以下のような設問がありました。

 

「問四:傍線部5『とてもいいなぐさめを、ありがとう』とあるが、この言葉に込められたマイクの想いについて、七十字以内で説明せよ。(299頁)」

 

学生の頃は、「こんなこと聞いてどうするんだろう」…とまでひねくれたことを考えたことはありませんでしたが、社会に出てから振り返ってみると、これはコミュニケーションの練習そのものではありませんか。ある背景と状況のもとで、マイクがこのように言っている、それにどういう意味があるのか、あるいはマイクの発言がどのような背景からなされているかを考える、ということは、社会人のコミュニケーションとして日々行われていることです。まさか、国語の学習にそのような目的があったとは、考えたことがありませんでした。

 

ちなみに、私の理解では、国語によるコミュニケーションの教え方には、2つの考え方があるように思います。ひとつは論理的なアプローチです。本書でも文章構造に関する解説が何回か出てきますが、例えば、主張を説明する方法には、(1)具体例を挙げる、(2)言葉を換えて繰り返す、(3)対比的なものを利用する、の3つしかないという本書の主張は、普遍的な「論理」の考え方ではないかと思います(言葉を換えて繰り返すのが論理的に議論の補強になるかはやや疑問ですが、文章としてはありだと思います)。

 

もうひとつは、「慣習的な」アプローチです。例えば、本書では一番はじめに「『のである』文は最重要」と述べられています。では、なぜ日本語では著者が重要な箇所に「のである」をつけたがるかと言えば、これは「重要な主張には『のである』をつけるのだ」と私たちが教えられたからではなく、日本語に日々接する中で「どうも重要な主張には『のである』がついていることが多いような気がする」と私たちが無意識のうちに感じており、その無意識にしたがっているからではないかと思います。留学中に、英語が母語でない人の文章を読み、「このような表現はあまり英語で見ないなあ」と違和感を感じたことがあり、その時に、単純に「なじみがあるかどうか」が言語を理解する上では結構大事なんだなあと感じたのですが、それとまったく同じことです。国語を学ぶとは、私たちが無意識のうちに従っている言語の慣習を言語化して明示的に理解するということでもあると思います。

 

さて、本書に戻りますと、著者は国語を学ぶ効用としてもうひとつ、「さまざまなものの見方を学ぶ」ことの重要性を取り上げています。いやはや、そのような先生の高尚な意図をしっかりと理解していれば、学生時代の私も国語の勉強に励んだかもしれませんが、私は国語の授業をきちんと聞いていた記憶がほとんどないのです。先生、申し訳ありません。子どもの教育には参考にさせていただきます。

 

しかし、国語を十分に身に付けずに大学生になってしまった場合、どのように学びなおせばよいのでしょうか。私は証券会社時代に、「大概のことはOJTで学べる/教えられるが、英語をOJTで学ぶ/教えるのはかなり無理」と思いました。語学は、ある程度できるようになるまでにやらなければならない積み重ねがあまりに多いので、やっぱり基礎ができていないと職場では匙を投げるしかありません。日本語の学びも似たところがあると思いますので、どうしたものだろうと思います。今すぐにはどうもできませんが、いずれ取り組んでみたいテーマです。